彼岸においでになる我が君よ。
此岸より文をお送りすることをお許し下さい。
貴方様は覚えておいででしょうか。
貴方様が私の手から零れた恋文を読んで、
大層満足げに微笑まれていたことを。
それらが全て届かなかった、否、届けなかったことを承知の上で。
故に。
また我が君に読んでいただけるように、
また書こうと思うのです。
届かなかった恋文を。
届けなかった恋文を。
お手に取り、どうぞご笑覧くださいませ。
最初の文は、そうですね。
やはり、我が君。
貴方様の事が宜しいでしょうか。
…貴方様は、私の綴る言葉を愛して下さいました。
私の綴る言葉をあそこまで愛してくださった方は、
後にも先にも貴方様お一人だけ。
その後に付ける貴方様の感想は、実に官能溢れるものでした。
品性を失わず、さりとて残り香として印象付ける程には。
その言葉遣い、文章の組み立て方、間の空け方。
全て、全て。
私の理想の殿方で御座いました。
有体に申し上げますと、あの時から私は貴方様に狂ったのです。
独り善がりの恋を始めてしまったのです。
顔には出さず。
口にも出さず。
耳なしの 山のくちなし えてしがな 思ひの色の 下染めにせむ
上手に梔子の色で染められたものです。
御存じなかったでしょう?
私のこのような思いなど。
このように仰ったではありませんか。
「愛ちゃんは○○さんが好きなんだよね?」
ええ、それも間違いでは御座いません。
けれど、我が君。
それ以上に私は貴方様をお慕いしていたのです。
胸の内を焦がすようなモノではありませんでしたが、
心の底に積もった思いは、
踝を越え、膝を越え、胸に迫り、頭の天辺まで覆い尽くす程。
貴方様への思いに、じわりじわりと溺れていったのです。
けれど、私は貴方様にその気持ちを見せることはありませんでした。
既に、人の夫であったのですから。
また、私が貴方様を愛したのは、貴方様が私に見せた言葉だけなのです。
故に。
男と女の愛ではなかったのです。
言の葉の恋だったのです。
貴方様が御隠れになられたと聞いたときに、
私の胸に去来したもの、それを貴方様がお聞きになったらどう思うか。
貴方様の居ない深い深い悲しみと、針先程の仄暗い歓喜。
ああ、ようやくあの方に伝えられるのだ、と。
私のこの独り善がりの言の葉の恋を伝えられるのだと。
ああ、ようやくあの方がどこにいるかわかったのだ、と。
彼岸、いつかは私も辿り着く彼岸。
ああ、ようやく終えられるのだと。
私のこの独り善がりの言の葉の恋が終わるのだと。
貴方様に触れ得ぬ深い悲しみを。
ほんの少しの歓喜で塗り潰して。
この恋文を書き終えたら、その中へ私のありったけの思いを乗せて、
貴方様の元へ届けましょう。
扇で隠した私の口元が、にんまりと弧を描くのを感じております。
また、頬をつうと伝う熱いものも。
きっと貴方様はこれを読んで、とてもバツの悪い顔をするのでしょう。
そして、頭を掻きながら「困ったな」と一言だけ。
さあ、どうぞ御笑覧あれ。
その笑いがたとえ、苦いものであったとしても、ね。
これは貴方様への文なのですから。
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