2022年11月6日日曜日

届かなかった恋文を【再び我が君へ】

 彼岸においでになる我が君よ。

此岸より文をお送りすることをお許し下さい。

貴方様は覚えておいででしょうか。
貴方様が私の手から零れた恋文を読んで、
大層満足げに微笑まれていたことを。
それらが全て届かなかった、否、届けなかったことを承知の上で。

故に。
また我が君に読んでいただけるように、
また書こうと思うのです。
届かなかった恋文を。
届けなかった恋文を。

お手に取り、どうぞご笑覧くださいませ。


我が君よ、長きに渡る無沙汰をどうかお許しください。
浮世の柵に疲れ果てていたのです。
否、現在進行形で疲れておるのですが…。

閑話休題。

今日の恋文はまた、我が君に届けようかと思うのです。

思い立ったのは、岡本かの子氏の「かの女の朝」を、
所要からの帰りの電車で読んだためでした。
「抒情的世界」
かの子氏が息子より言われたその一言が、
私の胸に深く深く突き刺さったのです。

私の綴る言の葉での抒情的世界。
それを、誰よりも愛して下すったのは我が君。
貴方様に他ならないのです。

私の抒情的世界に無粋な横槍が入ったとき、
即座に、そして烈火の如く怒って下すったのは貴方様でした。
捨て置けばよいと思っていた私に、
怒らなくてはならないと、態度で教えて下すったのは貴方様でした。

私の抒情的世界をこんなにも愛して下さる方が居る。
その事実に、私の心は歓喜に震えたのです。

「自分の抒情的世界の女主人に、いつもいつもなって居なさい」
岡本かの子 「かの女の朝」 より

私が私であって良いのだと。
そう、貴方様は仰って下さったのです。

我が君。
私の心を守って下すって有難う御座いました。
貴方様のお陰で、私は私で居られるのです。
貴方様のお陰で、今日に至ってもそれだけは変わらないのです。

絵を生業にされていた貴方様が教えて下すったポーの「黒猫」の表紙は、
私にとって忘れられぬ画となりました。
腐臭一歩手前の甘い甘い女の心は、
貴方様だけが手に取って下さいました。
貴方様の為だけに、毎日の様に抒情的世界を紡いでいたあの頃は、
とても楽しゅう御座いました。

もう、我が君の言葉を一言一句はっきりと思い出せなくなってしまいました。
晴天の下に刻まれた壁画が風雨に曝され、判読出来なくなるように。
けれども、確かに私の心には残っているのです。
私の言葉を愛した我が君のことを。
我が君の言葉を愛した私のことを。
さらりとしている癖にどこか妄執に似た、この気持ちを。

さあ、どうぞ御笑覧あれ。
我が君はきっとまた、苦笑いをなさるでしょうね。
それも仕方がないのです。
だってこれも、貴方様への恋文なのですから。