2018年11月4日日曜日

共存するもの

どうも皆様。
清水愛と申します。
はじめましての方ははじめまして。

二度目以降の方につきましては、いつも読んで頂きありがとうございます。
では本日もゆるゆると始めて参りましょう。


今日は久方ぶりに学徒となっていた。
無論、人生は学び続けねばならぬものとは知りつつも、
ついつい怠惰の心が先に出てしまう。
聴講生として、しっかりと三つの講義を拝聴してきた。
そして思ったことなどをつらつらと書いていこうと思う。


二つの講義で「不倫しているが騒動にならない人」の話になり、
その中で講師の皆様はこのようなことを言っていた。

「何かで突き抜けていると、そういう人だと認識され、
ある意味アンタッチャブルな存在となる」

ああ、と妙に納得してしまった。
事実、自分が一時期その様な扱いをされていたからである。
一時期私は、「セックスモンスター」のような扱いを受けていた。
(まあ今もその手の扱いを受けることはあるのだが)

その扱いは決して間違いでもないし、
事実他人から見られた時に、己の行動はそう映るであろう事も自覚している。
故に仲の良い友人や知人にしか見せない一面であるし、
私の事をよくも知らない輩から揶揄されたら本気で怒るわけであるが……。


ただどうしても納得がいかなかったことがある。


「え?本気で惚れた?まさかぁ」

男に本気で惚れた時、
その事を報告した男の友人から大体返される言葉がコレだ。

「お前に限ってそれはない。続かないよ」

何故、「性的に遊ぶこと」と「恋愛すること」が同居しないのだろう。
本気で惚れたら、とてもとても大切にする。
パートナーとして選んで貰っても、選んで貰えなくても。
清廉な娘でなければ本気で惚れてはならないのだろうか。


「え?本気で惚れたの?じゃあ遊ぶのやめるんだね。良かったぁ」

男に本気で惚れた時、
その事を報告した女の友人から大体返される言葉がコレだ。

「え?違うの?どうして?意味わかんない!」

何故、「性的に遊ぶこと」と「恋愛すること」が同居しないのだろう。
確かに、本気で惚れたら多少大人しくはなるけれど。
パートナーとして選ばれない間は、何をしようが私の自由だろう?
清廉な娘でなければ本気で惚れてはならないのだろうか。


心に身体がついてくるのならよい。
けれど、ついていかないこともある。
好きという気持ちはありつつも、夜の生活が徹底的に合わないことや、
性的指向が違う場合。
本気で好きになった人が、ゲイだったらどうするのだ。
私は性的に相手にされないではないか。
アセクシャルな人が相手だったらどうする。
相手に渋々相手させるなんて苦行、私はごめんだ。
例えヘテロな指向をお持ちの人でも、相手にされないことだってあるのだ。

故に、私の中にはその二つが同居している。
日本人としての倫理観では「相反するもの」として定義づけられることが多いようだが、
私の中では「共存するもの」なのだ。

「性的に遊ぶこと」は唾棄すべき事柄ではない。
それは性の権利宣言に裏打ちされる、性の喜びへの権利の行使なのだ。
「恋愛すること」は神聖化すべき事柄ではない。
誰にでも起こりうることで、自然な心の情動だ。
ただそれだけなのだ。


逆に、身体に心が付いていくこともある。
一晩寝てついつい絆されて、なんてこともある。
夫が見事にこのパターンだ。
絆された結果、遠距離恋愛を経て、まんまと私の夫に収まっている。

夫との関係はいい具合に「性的に遊ぶこと」と「恋愛すること」が同居しているのだ。
「性的なこと」をタブー視もしなければ、特別なものとしても扱わない。
とても身近にあることであり、とてもフランクに接している。
故に私の夫が務まっているのだろう。
勿論、「繁殖行為」として行う場合には、特別なものとして扱ってはいるが。


そんなことをつらつらと考えつつ。
正しく学徒であった数時間は楽しかった。
もう少し勉強せねばなぁ。

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